コラム一覧

FUKU51 MANHOLE(フクコイマンホール)親不孝通り(2018)の画像

FUKU51 MANHOLE(フクコイマンホール)親不孝通り(2018)

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マンホールで見つける51の福岡の景色

昭和5(1930)年、博多・千代部の下水道整備に着手して88年。 福岡市の下水道事業が平成30(2018)年度に「下水道事業88周年」を迎えたことを記念し、「FUKU51MANHOLE(フクコイマンホール)」プロジェクトが立ち上がりました。 地下の見えないところで安全・安心なくらしを支えてきた、そして、これから先も支えていく下水道の姿=「見えないところでつながっている」をコンセプトとし、福岡の「福」と幸福の「福」、福岡に「来い」と「恋」、マンホールの形「円」と人と人とのつながり、巡りあいの「縁」を掛け、-福恋縁結び-として、福岡市のマンホールデザインの中に、ハートを仕込んだマンホール蓋を製作しています。 枚数は、限定51枚。下水道の存在に気付いてもらうきっかけとなり、そして、このマンホールを見つけた誰かの幸せが、縁が、これからもずっとつながっていきますようにというおもいを込めて、市内各地に設置を進めています。 【関連リンク|福岡市ホームページ】 ◆福岡市マンホールふたのデザインFUKU51 MANHOLE リーフレットPDF(1,632kbyte)

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水炊き(2015)

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博多の名物鍋「水炊き」は中国料理と西洋料理がヒントになって誕生

北風が吹き始めて、寒くなってくると、食べたくなるのが鍋料理です。福岡・博多で鍋というと、若者は「もつ鍋」を思い浮かべ、博多に長く暮らしている者は「水炊き」を思い出すことでしょう。   「博多の文化の特長は、よそから来たものをうまくアレンジして、あたかも自分のところの特産みたいにしてしまうことですね。料理だってそうです」と語っていたのは、博多町人文化連盟の初代事務局長で風俗史研究家の帯谷(おびや)瑛之介さん(故人)です。   実は典型的な日本料理だと思われている博多の名物料理・水炊きは中国料理と西洋料理がヒントになっているそうです。水炊きの老舗「水月(すいげつ)」(現在、中央区平尾3丁目に本店あり)の創始者・林田平三郎さんが考案した食べ物といわれています。長崎に生まれた林田平三郎は15歳で香港に渡り、英国人の家庭に住み込んで洋食の勉強をしたとか。帰国後、そこで習得した西洋料理のコンソメと中国料理の鶏の水煮をあっさりしたスープ仕立てにして、季節の野菜やうどん、餅、最後は雑炊にまで広げて日本の味にしてしまったのです。これを1905(明治38)年、福岡に持ち込んで「水月」の看板を上げたのが始まりだといわれます。別名・博多煮とも呼ばれて博多から全国に広まっていきました。   福岡・博多における水炊きの食べ方は、まず鶏の旨味が凝縮したスープだけを器に入れ、福岡特産の細いネギ・コウトウネギを薬味として味わいます。それから鶏を食べ、白菜またはキャベツ、豆腐に春菊、キノコ類を鍋に入れて柚子やスダチ、ダイダイなど柑橘類の汁を搾り、醤油、ユズごしょうなどを加えていただきます。博多では冬だけではなく、1年を通して食卓にのぼる鍋料理です。   帯谷さんは「遣唐使以来、鎌倉時代に大阪の堺が港町として登場するまでの500年間、外国から来た文化は、まず博多に上陸していたわけで、食べ物や料理も博多から伝来しました」といいます。   遣唐使は630年から894年までのあいだに、十数回派遣されています(回数については諸説あり)。いずれも、大阪湾を出発した後に博多湾に寄港し、その後に旅立ったとか。帰国の際も博多に上陸して帰っていきました。その後も長く博多は日本における海外の窓口だったのですから、料理も大陸の影響を受けているのは当たり前ですね。

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承天寺(2008)の画像

承天寺(2008)

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うどんも、そばも、まんじゅうも博多発祥

博多祗園山笠発祥の寺としても知られる承天寺(じょうてんじ)の境内には「饂飩(うどん)蕎麦(そば)発祥之地」という石碑が建っています。承天寺を開いたお坊さん・聖一国師(しょういちこくし)は仁治2年(1241)に中国から帰国した際に、製粉の技術を持ち帰り、「饂飩・蕎麦・饅頭」などの粉物食文化が全国に広まっていきました。饅頭も、聖一国師が親切にしてくれた茶店の主人に製法を教えたと伝えられています。教えた饅頭は「甘酒饅頭」で蒸したもの。また羊羹(ようかん)の作り方も伝えたそうで、中世(鎌倉、室町時代)茶道の発展とともに饅頭も羊羹も広がりました。

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魚介類の盛り合わせ(2006)の画像

魚介類の盛り合わせ(2006)

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海の幸、山の幸、生きの良さが自慢です

福岡・博多は美味しい街といわれます。それは新鮮な食材がすぐそばにあるからです。まず、鮮魚市場は全国有数の取扱量を誇り、中国や韓国からも魚介類が集まっています。また福岡ブランドの農林水産物を積極的に展開しており、市民にもなじみのあるものばかり。イチゴは博多あまおう、米は博多米、ふくおか市民米、ほかにも博多青ネギ、博多のトマトなど野菜や果物は有名。また塩ワカメや恵比須カキなど水産物も注目を集めています。福岡市は大消費地に近接しているため、付加価値の高い農林水産物の供給を推進し、後継者の育成にも力を注いでいます。

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鮮魚市場(2013)の画像

鮮魚市場(2013)

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魚の美味しい街・福岡を支える鮮魚市場

福岡といえば、美味しい魚が食べられる街として全国的に有名。特に、サバやアジ、イワシなどの青魚を生で食べることができるほど、新鮮な魚が揃っています。四季折々に旬の魚が美味しい福岡を支えてくれているのが福岡市鮮魚市場。昭和30年(1955)に誕生したこの市場は、全国でも有数の市場。海に開かれた福岡という地の利を生かして、日本各地で獲れた魚の他に、中国、韓国など海外からもたくさんの魚が集まります。福岡市鮮魚市場は、魚が直接水揚げされ全国各地の市場へ出荷する産地機能と、市内をはじめ都市圏に魚を供給する消費地機能も併せ持つ西日本地域の拠点です。市場会館の1階には和食を中心に食事処や売店があり、自由に上れる13階の展望プラザからは博多湾が一望できます。

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中洲夜景(2009)の画像

中洲夜景(2009)

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愛すべき博多っこ!川上音二郎!!

川上音二郎は博多に生まれ、世界を駆けめぐった明治の演劇人。幕末の1864年に生まれ、14歳の時に博多港から船に乗って大阪に渡り、歩いて東京まで行き、福沢諭吉の書生などをやりながら、政府に反抗した自由民権運動に参加するようになります。明治20年代になると芝居を始め、出し物の一つとして生まれたのが「オッペケペー節」。自由民権運動にからませた歌詞が人気となり、大評判となりました。歌詞の一部を紹介すると ♪権利、幸福嫌いな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい オッペケペ…唄うときは陣羽織を着てハチマキを締め、日の丸の扇を持って袴(はかま)という格好です。明治24年(1891)、売れっ子芸者だった貞奴と結婚、二人で「川上座」を立ち上げて、彼女は日本初の女優となりました。明治32年(1899)にはなんとアメリカに渡り興行、翌年にはパリ万博に呼ばれて公演し大人気を博しました。また「オッペケペー節」はレコードとなり、これが日本人最初のレコーディングだったとか。帰国してからは、シェイクスピア演劇を上演し、興行師として成功しますが、明治44年(1911)11月11日に舞台で倒れて亡くなりました。毎年お墓がある承天寺で「川上音二郎忌」があり、ゆかりのイベントが行われます。

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福岡サンパレス(2006)の画像

福岡サンパレス(2006)

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お相撲さんがやってくる

福岡の街に北風が吹き始めると、着物とチョンマゲ姿のお相撲さんが目に付くようになります。11月に行われる大相撲九州場所は、福岡に冬が到来することを知らせる季節の風物詩となりました。毎年11月中旬から下旬までの2週間、福岡国際センターで行われるので、機会があれば見てください。砂かぶりといわれる土俵に近い席は高額ですが、後ろの椅子席だと手頃な価格で観覧できます。それでも高くて行けないという人には、市内いたるところに相撲部屋があるので見学してみるのもいいかもしれません。

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博多芸妓衆の1年のしめくくり「博多をどり」(撮影年不明)の画像

博多芸妓衆の1年のしめくくり「博多をどり」(撮影年不明)

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日本でただひとつ、公設民営の演劇専用劇場・博多座

もうすっかり福岡市民に愛されている博多座。今や九州中から、演目によっては全国からお客さまがいらしています。博多座は福岡市博多区下川端町にある演劇専用劇場、歌舞伎からミュージカルまで月替わりでさまざまな演目が上演される、公設民営の劇場なのです。芸どころだった博多の復活を目指し、福岡市や大手の興行会社などが出資し、運営を民間が行っています。座席数は1,490席(公演により増減あり)、あらゆる演劇公演に対応可能な設計がなされているため、回り舞台、花道、奈落、オーケストラピットなどが設置されています。オープンは平成11年(1999)6月3日、「博多座大歌舞伎」で幕開けしました。それ以来毎年6月は歌舞伎の1か月公演です。6月の歌舞伎とともに、今や博多の初夏の風物詩となっているのが「船乗り込み」。船乗り込みとは、歌舞伎興行の際に役者たちがご当地到着を船に乗ってお披露目するという伝統行事で、これも現在では大阪とここ博多でしか見ることができないものなのです。博多座の隣を流れる博多川で役者たちを間近に見ることができます。

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博多芸妓衆の1年のしめくくり「博多をどり」(撮影年不明)

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12月は博多座で芸妓さんの芸が見られます

芸妓さんが所属して、座敷の取り次ぎを行なったりする事務所のことを券番(けんばん)といいます。博多に最初の券番ができたのは明治22年(1889)、大正時代までに5つの券番ができました。最盛期は2,000名を超える芸妓さんがいたそうです。博多芸妓の1年は、1月の十日恵比須「かち詣り」で始まり、5月の「博多どんたく港まつり」に参加。終わるとすぐに稽古に入るというのが12月に博多座で行われる「博多をどり」、芸妓衆が総出演し、邦楽、邦舞の芸を披露して1年を締めくくります。

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